エドガー・ケイシー探究記

エドガー・ケイシー研究者 光田 秀が伝えたいこと

ヨガナンダとケイシーの接点

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パラマハンサ・ヨガナンダの驚くべき一生を描いた自伝『あるヨギの自叙伝』は私も学生時代に読んで、大いに感銘を受けましたが、このヨガナンダとケイシーに意外な接点があったことを私もつい最近知り、その内容にまたまた驚愕いたしました。

この伝記を編集したTara Mata(本名Laurie Pratt)は実は、ヨガナンダに請われてSRFで編集をするようになる約10年前に、エドガー・ケイシーからライフリーディングを得ていたのです。

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Laurie Pratt

ケイシーの研究家シドニー・カークパトリック氏の調べたところによれば、Laurie Pratt女史は1924年にサンフランシスコで開かれたヨガナンダの講演会に参加し、そこでヨガナンダにすっかり心酔したようです。それまでインドに憧れ、インドに行って修行したいと思っていた彼女は、「インドが私の所に来てくれた」といって、それから47年間、ヨガナンダの弟子として修行することになります。

そして、彼女がニューヨークでSRFの発行していた機関誌East-Westの編集員ならびにライターとして働いていた26才の時に、エドガー・ケイシーから最初のライフリーディング(778-1)を得ることとなりました。

リーディングは、占星学的な特徴を説明し、今回の人生では33才から43才の十年間に人生に大きな変化があることを示唆し、王家の一員になり栄誉を受ける可能性があると暗示しました。さらに彼女のフランス、ローマ、インド、エジプトの過去生を明らかにし、今回の人生ではインドの過去生で得たことを生かすことを勧められました。

その後、女史は結婚し(ちなみに、夫も娘もケイシーからリーディングを得た)、家計を支えるために占星術師をしていましたが、その後、離婚し、サンフランシスコに戻って母親の介護をしていました。

そして、母親が亡くなる数ヶ月前に、ロサンゼルスのSRF本部におられたヨガナンダから、自叙伝の編集長を務めてくれるように請われ、その才能をこの伝記の完成に注ぎました。

ヨガナンダ自身、Tara Mata (Laurie Pratt)の助けがなければ伝記は完成しなかったと語っており、この本の献辞にも彼女の名前が最初に現れています。Prattは謝辞に自分の名前がでることを固辞したそうですが、ヨガナンダに強く請われて承諾したそうです。

彼女はエドガー・ケイシー財団のメンバーとも親しく、1933年にはエドガー・ケイシー財団で講演もしています。また、エドガー・ケイシーのためのホロスコープを描いて、ケイシーの占星学的な特徴を読んでくれました。

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Edgar Cayce's Birth Chart

エドガー・ケイシーの長男ヒュー・リン・ケイシーは、『神の探求』の編集をPrattにお願いすることを考えたようですので、もし女史が『あるヨギの自叙伝』を編集していなければ、彼女がケイシーの『神の探求』を編集したのかも知れません。

エドガー・ケイシーとパラマハンサ・ヨガナンダとの間に直接の交流があったかについては記録がありませんが、こうしてヨガナンダの愛弟子がケイシーをも敬愛していたのですから、ヨガナンダとケイシーは互いに理解し合っていたのだろうと私は思います。

Pratt女史は、その生涯で「王家の一員」になったわけではありませんが、まさにリーディングの指摘した時期に、パラマハンサ・ヨガナンダというヒンズー教で最も尊敬される聖者に召し出されたという点で、リーディングのこの言葉は成就したと言えるでしょう。別の見方をすれば、リーディングは、ヨガナンダをヒンズー教世界のKingに等しい人物と見なしたということかも知れません。

エドガー・ケイシーは1945年に亡くなり、ヨガナンダは1952年に、Pratt女史は1971年になくなりました。

*ちなみに、Pratt女史のリーディング(778-1と778-2)は二つとも最近私が翻訳しましたので、ケイシーセンターの会員の方は、リーディング検索システムで読んで見て下さいませ。