エドガー・ケイシー探究記

エドガー・ケイシー研究者 光田 秀が伝えたいこと

カント「実践理性批判」の私風要約(2014年7月9日)

カント曰く、人生に意味があるとするならば、2つの前提が成立しなければならない。
すなわち、創造者としての永遠不滅の神が存在するということ、もう一つは、われわれ自身の存在の核(である霊魂)が不死であること、である。これが成り立たなければ、人間に存在意義はない。まことに哲学的に当然の帰結である。

人間存在に本質的な意義がないとなれば、道徳も倫理もヘチマもない。極善も極悪も、はなから意味がない。正邪もない、誠実・不誠実もない。意義のない存在を殺そうとも、助けようとも、無意味である点において同列である。人間を単なる肉体存在として考える限りは、このような思考が結果する。人間の邪悪を押しとどめる根拠を持たなくなる。

しかるに、創造者としての神が存在し、人間の本質が永遠不滅の高貴な魂であるならば、人間存在には途方もない意義が備わることになる。人間は必然的に究極の善を目指して生きることが要請されることになる。

人間の霊的本性を否定する社会にあっては、必然的に悪が蔓延し、人間性は退廃し、道徳は破棄される。人間の霊的本性を認め、それに最大の意義を付与する社会は、自動的に最高善に向かおうとする。

カントの「実践理性批判」のエッセンスを私風に要約するとこうなる。

願わくば、日本に霊性の息吹が回復されんことを。


2014年7月9日
 

無神論者であるはずのBertrand Russellの言葉。
“Unless you assume a God, the question of life’s purpose is meaningless.”
「神の存在を前提としない限り、人生の目的を問うことは無意味である」
まことに、まことに。

自らを存在せしめた神の意図を考えない人生論はすべて無益な雑音ということ。
私を存在せしめた神の意図に向かって、私は生きたいと思う。